第12回 村上春樹と寺田寅彦の言葉

第12回 村上春樹氏と寺田寅彦の言葉ヘッデイング

 村上春樹、「職業としての小説家」(スイッチ・パブリッシング 2015)には小説を書くこと、および小説家の特性が記されています。たとえば、「小説を書くという行為はかなりの低速・ローギアで行われる作業なので、小説を書くというのはあまり頭の切れる人に向いた作業ではない。」そうです。また、「多少文才のある人なら一生に一冊くらいはわりにすらっと書けるが、それができる聡明な人たちはおそらく小説を書くという作業に、期待したメリットを発見しないようだ。これならほかのことをやった方が効率がいいじゃないか、と思って。」

しかし「そういう不必要なところ、回りくどいところにこそ真実・真理がしっかり潜んでおり、効率のよくない回りくどいものと、効率のよい機敏なものとが裏表になって、我々の住むこの世界が重層的に成り立っている。」のだそうです。これに気が付けばよい小説が書けるということでしょうが、同時に「小説を書くというのは、基本的にはずいぶん「鈍臭い」作業。」であると、尤もな指摘をしています。従って聡明な人は小説を書かず、かえって「あまり頭の良くない方の人が一人であとに残って、実際に自分の足で頂上まで登って」、結果的に良い小説を書くのでしょう。

以上の小説と小説家の特性というのは科学、科学者の特性とよく似ていることに気が付きます。現に小宮豊隆編、「寺田寅彦随筆集 第四巻」(岩波文庫 緑37-4、岩波書店、1948)の「科学者とあたま」にも同じようなことが書かれています(この記事は多くの人に読まれているので、ご存じの人が多いと思います)。

すなわち、「科学者は頭が悪くなくてはいけない」、「頭のいい人は、いわば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。富士はやはり登ってみなければわからない。」、「頭の悪い人は前途に霧がかかっているためにかえって楽観的である。そうして難関に出会っても存外どうにかしてそれらを切り抜けていく。どうにも抜けられない難関というのはきわめてまれだからである。」、「研究の徒はあまり頭のいい先生にうっかり助言を請うてはいけない。きっと前途に重畳する難関を一つ一つしらみつぶしに枚挙されてそうして自分のせっかく楽しみにしている企図の絶望を宣告されるからである。」、「頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめだとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んでくる人にのみその神秘の扉を開いて見せるからである。」などの指摘は「科学、科学者」を「小説、小説家」に読み替えれば村上氏の指摘に通じます。どのような分野でも先進的・独創的な知的作業とそれに携わる人の特性は共通していることがわかります。

さて、村上氏は上記の著書の中でさらに「小説家としての賞味期限はせいぜい十年くらい。」と指摘しています。先進的・独創的な執筆はとても過酷な作業なのでしょう。小説家のうちの何人かはしばらくすると「落ち着くべき場所にすんなり落ち着く」のだそうですが、これは「創造力が減退するのとほとんど同義」なのだそうです。これも科学、科学者につながる指摘です。先進的・独創的な科学研究は過酷な活動でありますが、落ち着くべきところに落ち着いてしまわず、長期にわたり研究を続けたいものです。

村上氏は何回もノーベル文学賞候補にあがっていますが、国内外の文学関係の賞に対して独特の考えを持っているようです。現に上記の著書のなかで、「文壇みたいなところから比較的離れた場所で仕事をしてきました。」、「賞の価値の客観的裏付けなんていうものはどこにもない。」、「真の作家にとっては、文学賞なんかより大事なものがいくつもある。そのひとつは自分が意味のあるものを生み出しているという手応えであり、もうひとつはその意味を正当に評価してくれる読者が―数の多少はともかく―きちんとそこに存在するという手応えである。」、「後世に残るのは作品であり、賞ではありません。」と記しています。

もちろん、賞をもらえばうれしい事には違いないのでしょうが、栄誉というのは人から与えられるのではなく、自分の心の中に湧いて出てくるものでしょう。科学においても受賞者ではなく発明・発見されたものが後世に残り、人の役に立ち、さらに新たな発明・発見を誘発するのです。