第3回 本居宣長の言葉

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第3回 本居宣長の言葉

 2015年9月、三重県松阪市に行きました。その折、本居宣長旧宅を見学し宣長に関する資料を閲覧させていただきました。余談ですが、宣長の父親の姓は「小津」です。三重県松阪市には「小津」姓が多いようです。映画監督小津安二郎のゆかりの地でもあり、小津安二郎青春館があります。(小津自身は東京、深川の生まれ。現在、江東区古石場の古石場文化センターに小津安二郎紹介展示コーナーがあります)。松阪市から帰京後に宣長の評伝、「本居宣長」(本山幸彦著、清水書院、1978(新装版は2014))を読みました。下記がその感想と私なりの解釈です。

宣長は「たえず初歩からこつこつと高いところを目指して研究を進めよ。」と主張し、ライフワーク「古事記」を35年かけて完成しました。またその後、72歳で死去するまでの14年間、古道論の宣揚に力を費やしました。これらは基礎研究を長く持続することの大切さを示していると思います。また、この研究の過程で 肝心の京都では伝統思想の壁にはばまれ、古道思想がうけ入れられませんでした。しかし宣長はこれら抵抗勢力からの攻撃に耐え、大きな業績を上げました。 晩年の古道の宣揚活動では、書斎生活の殻を破り積極的に街頭に進出しました。これはかなり緊張度の高い生き方だったと思います。しかし「古事記伝」の完成という前人未到の学問的大業をなしとげた自信に支えられ、精力的にこの活動を進めました。アウトリーチすることの大切さを身をもって示したといえましょう。そして心の悩みにたえる強靭さを内に秘めながら、自分自身に忠実に一貫し、持続する心を持って生きぬきました。
権力に対しても毅然とした態度をとり、自分の嫌な遠国住まいや江戸住まいを要求されるならばたとえ相手が加賀百万石だろうときっぱり断りました。先人の道がいかに権威あるものだったとしても、その権威のゆえに学ぶ必要を感じていなかったようです。自ら好むこと(私有」し、「自楽」できること)以外には学ぶ必要は生まれてこないとも主張していました。私人たる町人の私的な努力の成果をどこまでも大切にすべきだと権力者に教える宣長の思想は、貧困な農民の場合でも富有な町人の場合でも同じであり、それに対する藩権力の不当な侵入には、宣長はきびしい態度に出たとのことです。要するに権威に屈せず、孤高を保つ。「自分」を確立することが大事なのでしょう。
大作「古事記伝」を完成した69歳の宣長が、その学問体験を後進に伝え、古学入門の手びきとするため、門弟たちの求めに応じて寛政10年(1798)に「初山踏」を書き与えました。この書では「学問の本来の在り方は学者自らその対象を選択し、決定すべきものであり、他から強制すべきものではなく、また、強制されるべきものでもないこと、自分で何が学びたいのかよく考える事が重要である。」と説きました。すなわち、研究はneeds型、 seeds型以外にwants型があり、これが重要であることを示したのだと思います。まさに学問の対象や方法に関する自主的かつ自由な選択と決定の必要、および長年の精進の肝要さを説きました。宣長自身が学問に志すすべての人々の主体性を尊重し、いろいろな学問にそれぞれの価値あることを承認する自由な精神の持ち主だったのでしょう。「主体的意欲が欠如し、自らの内面の要求に徹しない学問は、もはや学問たるに値しないもの、少なくとも道の学びというにはふさわしくない。」とも主張しています。 また、師の説の善悪をいわず、ひたすらこれを守るのは、「学問の道には、いふかひなきわざ也」とも述べています。また、自分の教えを受けて学問する人たちも、自分の説よりよき説ができたならば、決して自分の説にとらわれることなく、自分の説を批判して、そのよき説を公開すべきであるとも説いています。学者はいかに世人が批判しようとも、正しいと信ずる自分の学説は守るべきもので、学問・研究の成果は社会の評価とは無関係なのでしょう。あやまった、あるいは不充分な自説に固執することの非を説き、学説は研究を深めるとともに変わるのが当然と指摘しています。要するに学問は「仮説」であるということでしょう。
宣長は決して近代的な学者ではありませんが、彼が把握した主情的人間観は思想史的に高い価値を担っています。なぜならば彼の人間観が歴史性を背負うとともに、歴史を越えた人間の本質を示唆していることを無視できないからです。また、自己自身の体感をふまえ、古典の世界を自らの心底に再現しつつ、自己の学問と思想を形成するという方法の貫徹は、当時にあっては、数少ない優れた学者、思想家の学問的な生き方にしかみられないものだったからです。
ただし、宣長の学問は、その余りにも強い独自性のゆえに、かつまたその総合的な質の高さのゆえに、数ある宣長の門人たちも、誰一人としてその学問を正しく継承することはできず、彼らは師の学問を、思想と純学問的な分野に分離し、それぞれの性格と能力に応じてそれらを学びとったとのことです。また、宣長の言わんとするところを正しく受けつぎ、それを発展させた門人は皆無だったといわれています。宣長なき後の国学の世界に大きな足跡を残したのは、没後の門人たち、とくに平田篤胤であり、宣長の古道論は、平田篤胤によって大きく変質されました。この経緯を私がこれまで推進してきたドレスト光子の研究に置き換えてみると、今後はドレスト光子の科学と技術は互いに違う分野として分離し発展しても良いということだと思います。また、この科学と技術は後進により次第に変形されていくのが自然な成り行きでしょう。

図7.1

図3.1 本居宣長旧宅